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品質を磨く編 10 壺中天に表される内面世界を磨くこと

安岡正篤に学ぶ 品格編

壺中天とはどういうものか

 

人間はどんな境遇にありましても、
自分だけの内面世界をつくり得る。

いかなる壺中(こちゅう)の天を
持つかによって、
人の風致は決まるものです。
出典元

イースト・プレス刊 安岡正篤 運命を思いどおりに変える言葉より

註 
壺中天(こちゅうのてん)とは、現実の世界とは異なる別世界をさします。
また、別の意味では、飲酒して現世の嫌な事から逃れる意味として使われます。

 

解説・この言葉から思う事

 

「壷中天」という言葉の由来について少し説明を致します。

この言葉は中国の「後漢書」に出てくる話が元で、
とある時、費長房(ひちょうぼう)という役人が、
薬売りの老人が仕事が終わる夕刻になると、
店先につるした壺の中に入っていくのを
見たところから始まります。

この老人は実は仙人で、ある時費長房(ひちょうぼう)は仙人に
頼み込み、この壺の中に入らせてもらいます。

その壺の中には、素晴らしい宮殿があり、
黄金や宝玉で飾られていました。

費長房(ひちょうぼう)はその壺の中の別世界で
大いに楽しんだ。という話から、世俗の生活にあっても
独自の内面世界を持つことが心のゆとりに
繋がるのではないかというたとえ話です。

 

 

このことから、どれほど忙しくても、束の間
夢中になれる自分の世界を作ることが、
人格形成に大きな影響を与えるものだと解釈します。

更に、踏み込んで「安岡正篤師」の座右の銘を拝見すると、
師が好んで書かれた言葉に「六中観」という言葉があります。

「六中観」についてはWikipediaを参照する下記のように解説されています

一、忙中閑あり
「ただの閑は退屈でしかない。ただの忙は文字通り心を亡ぼすばかりである。真の閑は忙中にある。忙中に閑あって始めて生きる」
二、苦中楽あり
「いかなる苦にも楽がある。貧といえども苦しいばかりではない。貧は貧なりに楽もある」
三、死中活あり
「死地に入って活路が開け、全身全霊をうちこんでこそ何ものかを永遠に残すのである。のらくらと五十年七十年を送って何の生ぞや」
四、壷中天あり
「世俗生活の中にある独自の別天地をいう」
五、意中人あり
「常に心の中に人物を持つ。或いは私淑する偉人を、また要路に推薦し得る人材をここというように、あらゆる場合の人材の用意」
六、腹中書あり
「目にとめたとか、頭の中のかすような知識ではなく、 腹の中に納まっておる哲学のことである」
出典元
ウィキペディア 六中観の項

 

 

忙しい時ほど人の本性が見える

 

「壺中天」を掘り下げて考えますに、
どのように人であっても、それぞれ心の中に現世界とは
別の自分だけの内面の世界というものを持っている。
「安岡正篤師」は言っています。

それぞれが心の内に築き上げた内面の世界はいかなるものでしょうか?

肝要な事は、どのような内面の世界を作り、持つかという事です。

そして、その内面の世界が、現実世界と如何に調和するかにより、
人と正しく接することを学び、人間として磨かれることで、
人としての風雅が醸し出されると「安岡正篤師」は言っているのです。

忙しい時ほど、その忙しさから距離をおき、利害が全く生じない
自分が夢中に慣れる事にしばし没頭することが、
心のリフレッシュに繋がり、新たな闘志が湧いてくるのではないでしょうか。

 

 

忙しい時ほど自分をより客観的に俯瞰する時間を
持つことはとても大事だと私は思います。

 

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