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品格を磨く編 13 自分をわきまえる

安岡正篤に学ぶ 品格編

自分と分際

 

人間は「自由」と同時に
「分際」として存在する。

 

これを統一して「自分」というのであります。

 

出典元

イースト・プレス刊
安岡正篤 運命を思いどおりに変える言葉
より

自と分を考える

「自分」という言葉を二つに分けて考えてみると、
「自」「自己」、「自由」を意味します。

「分」「分別」、「分際」を表し集団の一部で
あることを示しています。

つまり「自分」という言葉には、「自己」という存在と
同時に多くの「自己」集まって社会を構成する
一部分的存在でもあります。

更に「自分」とは、自ら望むことを選択し、
やり遂げる自由を持ちながら、社会生活において
他者との協調性を求められる存在だという事です。

このことを弁えた上で社会の一員としての自覚を持ち、
自ら望むことの実現化を目指して日々活動することが
望まれるのです。

 

 

自と分のバランスが狂うと

往々にして、年齢を問わず、「自」「分」のバランスが崩れて、
「自」が勝ると、社会や集団を維持するための共通認識やルールから
逸脱して自分勝手な行動が目立つようになります。

ニュースでよく見る事の一つに、東京の大久保駅の周りは
コリアタウンのように韓国系のお店が多数出店しています。

ここでは韓国で流行したファーストフードを扱う店も
多くあり、若者が買い食い、立ち食いをし、食べ終わった
ごみを通りや個人の住宅の前、マンション前に平然と捨て置き、
町を激しく汚しています。

 

 

小学生の頃に教わっただろうことに、自分が作ったごみは、
家の持ち帰るという常識が、大久保の町に集まる若者たちは
持っていません。

本来日本人はきれい好きで、自分の住まい以外の道でも
履き掃除をしてごみを散らかさない民族でした。

 

 

しかし、近年の日本人の行動を鑑みると、
無神経な自由を謳歌するものの存在が、社会通念を
破壊し続けているとしか思えないことがしばしばあります。

如何に、自分勝手な行動が世間を不快にするか
理解しておくべきです。

もし「分」を弁えていれば、このような
不始末は発生しませんが、「自」「分」のバランスが
崩れている現実を知るきっかけになる一つの例です。

「安岡正篤師」はご自身の著書「照心語録」の中で
「分が分際から分裂の分になり、自己が分れてしまう。
それは利己でしかない」と言っております。

非常識であると、集団行動で特定の誰かだけではなく、
あらゆる人々が不快と感じるような行動を
正す気持ちを持つ人が「分際」の意識がある人と言えます。

 

 

更に仕事や人との関わり上、「分」を忘れて
会社や組織、集団に関わるととても浅い
中途半端な意識で接することになります。

その逆に必要以上に「分」に偏るのも
良くない傾向です。

「自」「分」を適度にバランスよく
使い分け、自立していくことで、組織や集団内で
埋没することがなくなると言えます。

 

 

 

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